「あぐり」という名前
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「あぐり」という名前がある。有名なところでは鈴木亜久里や吉行あぐりであろうか。鈴木亜久里は元F1レーサー。吉行あぐりは本名「吉行安久利」で小説家の吉行淳之介や女優・吉行和子の母。NHKの朝ドラ「あぐり」の主人公のモデルになった。
この「あぐり」という変わった名前は、「もうこれ以上いりません」という意味なのだという。私は今日までそのことを知らずにいたので驚いた。「あぐり」とはそんな意味だったのかと。
今ではもう名付けられることもないだろうが、昭和初期までの女性には「すえ」や「とめ」、あるいは「すて」という名の人が多かった。漢字では「末」「止め」に「捨て」で、もうこれ以上いらないという意味だった。労働力となる男子が歓迎された時代のことで、女児が幾人も産まれるとこうした名前を付けられることがしばしばあった。現在でもインドでは、「不要」を意味する「ナクサ(Nakusa)」と名付けられた女性が多いのだという。労働生産性の低い低開発国では男子の労働力が大量に必要で、女児が多く産まれるとこうした扱いを受ける。これは世界の多くの場所でみられる現象のようだ。
「あぐり」も「すえ」や「とめ」や「ナクサ」と同様の意味であった。
しかしでは、「あぐり」の元々の意味は何なのか? 「すえ」も「とめ」も、元々「終わり」や「止める」という意味の言葉があり、そこから名前に転用されている。「あぐり」にも元の意味があったはずで、それが分からない。「あぐり」という名前が「もうこれ以上いりません」という意思を込めて使われるなら、元となった言葉も同様の意味があったはずで、その言葉はどんな風に使われていたのか。「末」「止め」「捨て」は現在も普通に使われている言葉だ。それに対し、「あぐり」は今ではまったく使われていない。元の漢字すら思い浮かばない。「すえ」「とめ」「すて」と比べると、「あぐり」という言葉の異質さは際立っている。
ウェブ上で「あぐり」を調べると、Yahoo! 知恵袋に求めていた答えらしきものがあった。それによると、文政5年(1822年)発刊の「久宝田のおち穂」(著者・菅江真澄)に、「あぐりとはものが充満したことをいう」と記されているそうだ。また、「総合日本民俗語彙」に、青森県の野辺地では「溢れること」「もうたくさんという意味」で使われている(使われていた?)との記述もあるようだ。
菅江真澄は宝暦4年(1754年)、三河国渥美郡(愛知県豊橋市)に生まれた江戸時代後期の旅行家で博物学者。以下はWikipediaから。
旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。今日で言う文化人類学者のフィールドノート(野帳)のようなものであるが、特にそれに付された彼のスケッチ画が注目に値する。彩色が施されているものもあり、写実的で、学術的な記録としての価値も高い。彼は本草学を下にして、多少の漢方の心得もあったという。著述は100種200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されている。この名前で東洋文庫に収録され、2000年以降、平凡社ライブラリーから5巻本として刊行されている。形態は日記・地誌・随筆・図絵集などとなっているが、内容は民俗・歴史・地理・文学・考古・宗教・科学など多岐にわたっており、特に近世後期の民衆の生活を客観的に記していることに特徴がある。
菅江真澄についての本は多く、「あぐり」の記述の信憑性も高そうだ。意味もYahoo! 知恵袋の示唆の通りと受け取って構わないだろう。「久宝田のおち穂」は久保田藩(現在の秋田県)に居住していた折に書かれたもので、少なくとも1800年代初めには、東北地方の秋田から青森にかけての地域で、「あぐり」という言葉が「ものが充満した状態」を指すものとして使われていたことは間違いなさそうだ。そこから「もう充分だ、これ以上女の子はいらない」という意味で「あぐり」と名付けるようになったのであろう。
これで「あぐり」の意味と由来の謎はかなり解けた。しかし、冒頭に紹介した吉行あぐりは岡山県岡山市生まれの女性であり、「あぐり」が使われていた東北とはずいぶん離れている。東北地方と中国地方では言語的な断絶も大きい。
吉行あぐりは明治40年(1907年)の生まれだ。少なくとも明治末期には「あぐり」は東北から西日本に至る地域で使われていたのだろうか。あるいは、「ものが充満している」ことを表現する形容詞としての「あぐり」は伝わらず、これ以上女児は必要ない場合に「あぐり」と名付ける慣習だけが全国的に伝わっていたのだろうか。
最後の「あぐり」という言葉・名前が使われた範囲と差異に関しては疑問を残した。いずれ謎が解けた時には改めて記したい。
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